タグ・ホイヤーのモータースポーツモデルだけを解説
タグ・ホイヤーってF1とかで、有名な会社でレーサーが腕につけてる時計!
というイメージを持ってる方は多いと思います。
しかし、このタグホイヤーって会社がどのようにして成り立ち、時代のどこら辺から世間に受け入れられてきたのか!?
というのを知ってる方は、あまりいないのではないでしょうか。
今日はですね、ホイヤー全体の歴史ではなくホイヤーが時代のどこら辺から表舞台に立ち、その頃に活躍した時計をメインに解説させて頂きます。
1、ホイヤーの魅力を簡単解説
2、70年代のホイヤーの自動巻開発
3、簡単に連合ブランド解説
4、ホイヤーのスポーツモデル一覧
5、ホイヤーからタグホイヤーへ
となっております。
1、ホイヤーの歴史と魅力を簡単解説
ホイヤーという時計のブランドについて、一言で表すのであればレーサー向けの時計会社でしょう。
覚え方としては、パイロット向けはブライトリングでレーサーはホイヤーって覚えると、時計初心者の方でもイメージしやすいし覚えやすいと思います。
ざっくり解説しますと、ホイヤーは元々高精度なストップウォッチを作ることができる会社でした。
1920年代~30年代にかけては、100分の1秒まで計測できるクロノグラフが話題を呼び、オリンピックの時計に採用されています。
(1920年アントワープ大会・1924年パリ大会・1928年アムステルダム大会)
しかし、ストップウォッチの会社として認識されていたホイヤーは、腕時計の時代に突入した際にその流れに乗ることができなかったのです。
もちろん、ホイヤーも腕時計を作ってなかったわけではありません。
軍用の腕時計を1940年代(第二次世界大戦のため)から、少数ですが各国に納品してましたし、スイスの高級宝飾店「チューラー」がホイヤーに依頼して製造した時計もありますからね。
軍用として採用されるというのは、それ相応の技術力と信頼性がないとできないことです。
高級宝飾店から依頼されるのも、それと同じです。
ちなみになんで、チューラーから依頼がされてたかっていうと創業者がエドワードホイヤーって人なんですが、この人は元々オーストラリアから鉱物(宝石の石ですね)を仕入れて加工して販売する仕事をしてたんですよ。
だから、チューラーとの関わりがあったんだと思いますね。
ですので、確実に技術力はあった会社です。
しかし当時は、今の私たちがイメージするようなレーサー向けの時計ブランド!というイメージではなく、数多くある時計ブランドの中のちょっと上のストップウォッチの会社。
程度の認識だったんですね。
ですので、腕時計の歴史においてホイヤーの時計というのは、1960年代後半からが花形であり、それまでのホイヤーというのはストップウォッチの成功はあったにせよ、まだまだ日が当たる会社ではなかったと考えていいでしょう。
よって、ホイヤーの腕時計を見てく際には大体60年代後半から70年代にかけての作品(レース用でなければ40〜60年代まで含んでいいと思います)を理解しておけば、事足りるのではないかなぁと思います。
そして、この頃に作られたモデルがホイヤーの人気モデルですし、ホイヤーの代表作になっています。
では、実際にホイヤーがどうやって火の光を浴びるようになったのかを見てみましょう。
2、70年代のホイヤーの自動巻開発
ストップウォッチの会社としてのイメージを払拭させたいホイヤーは、当時スポーツカーレースの黄金時代を迎えておりそこに注目します。
1950年代に入ると、モーターレースのブームが起こりモーターレース用の時計として、オメガやロレックスが参戦していき、時計会社も密接な関係を構築していくようになります。
同じ頃、初めてNASAに採用されたのが、オメガのスピードマスターであり、さらにオメガの注目度は上がります。
そんな中ホイヤーは当時、時計業界の中で熾烈な開発競争が行われていた『自動巻クロノグラフ』で、レーシング業界に殴り込みをかけていくことになるのです。
自動巻クロノグラフは、ただでさえ小さな時計のスペースにさらに多くの部品を盛り込むことが求められたため、1940年代から始まった開発は30年近く経っても実現されてませんでした。
よって、単独での開発が困難と考えたスイスの時計ブランドは、連合を作り開発していくことにしたのです。
3、簡単に連合ブランド解説
スイスブランドの連合の話なのですが、一応外側から1社で開発を進めてきた会社があります。
クオーツショックが起こる前の1969年の話ですが、スイス以外の国から自動巻クロノグラフが発表されます。
これが、俺たち日本の最強ブランドSEIKOでした。
これに対抗するように、スイス自動巻クロノグラフ連合が2つ誕生します。
1つ目が
ホイヤー(レオニダス)・ブライトリング連合
レオニダスってのは、ホイヤーの兄弟会社のことですね。
そこにビューレンとその親会社のハミルトンを加え、クロノグラフ機構の開発を行ったのがクロノグラフ専門メーカーのデュボア・デプラでありこの4つの会社の連合が完成します。
これが、みなさまご存知のブライトリングのモデルにもある、クロノマチックに搭載されてる、Cal.11でした。
2つ目が
モバード・ゼニス連合
2社とも、独自にムーブメントを作ることが出来たマニュファクチュールだったので、最高技術を結集し設計と研究に7年間を投じた、高級自動巻ムーブメントであるエルプリメロが完成します。
これがキャリバー3019PHCです。
これら日本1社、スイス連合2社が1969年に同時に自動巻クロノグラフを発表したのです。
どこが最初か、という話は色々な見方があるのでここでは割愛致しますね。
4、ホイヤーのスポーツモデル一覧
こういった、世界初自動巻クロノグラフ開発競争が背景にあった状態で、またホイヤーについて見ていきましょう。
そういったライバル会社からも出された、自動巻クロノグラフなので自社の商品が一目で分かるように工夫する必要がありました。
それが、モデル名『オータヴィア』『モナコ』『カレラ』です。
まずはオータヴィアから、ご紹介して参ります。
これらの時計は、ぱっと見で、自動巻クロノグラフと分かるように工夫されています。
それは他の時計と比較して、リューズが反対側にあることです。
基本的リューズは、右側にあるのに対して左側にあります。
このようなデザインにすることで、他社と差別化しぱっと見で自動巻クロノグラフだということを、証明できるようになったのです。
ホイヤーのデザインを見てみると、半分くらいがこの左リューズになっており、モータースポーツに自動巻クロノグラフで勝負に挑んだ気概を感じることができるのです。
このオータヴィアというモデルの名前の由来は、当時、自動車や航空機初のダッシュボードタイマーとして搭載されていたのが『オータヴィア』でした。
元々、ホイヤーは先ほども説明した通り腕時計の会社ではなく、その他の商品に強みを持っており、1933年に自動車や航空機のダッシュボードタイマーを作っていました。
そのダッシュボードの名前が、「AUTomobile(自動車)」と「AVIAtion(航空)」の2つの名前を合体させてネームングされたものです。
ですので、そのダッシュボードタイマーの名前をそのまま、腕時計に持ってきたということですね。
ちなみに、このように1933年に誕生したオータヴィアなので自動巻クロノグラフの前に、機械式クロノグラフが作られ1962年に発表されております。
では、このオータヴィアを中心にそれから派生していく、モータースポーツモデルを見て見ましょう。
カレラ
オータヴィアと比べると、ベゼルのタキメーターが文字盤の中に入っております。
カレラの名前の由来は、1950年から僅か5回だけ開催された伝説的なレース「カレラ・パナメリカーナ・メヒコ」から取られたものです。
その内容はと言いますと5日間で約3000キロの公道を走破するという、過酷なレースでした。
3000キロがどれくらいかと言いますと、東京から福岡までが1000キロなんですよね。
ですので、それを5日間で3回繰り返すようなものと考えてください。
いや、過酷すぎますよね、笑
このレースに、ロマンとスリルを感じた当時の社長である『ジャック・ホイヤー』がそのレース名を取ってカレラと命名しました。
モンツァ
イタリアには、モンツァ・サーキットというのがあります。
このサーキット場は、とても大きくF1グランプリも行われるほどの優れたサーキット場です。
日本でいうところの、鈴鹿サーキット的な感じではないでしょうか。
1975年、フェラーリの人気ドライバーである、ニキ・ラウダが世界選手権で優勝した事を祝い「MONZA(モンツァ)」が誕生しました。
モントリオール
こちらもサーキット場の名前から取られてるもので、カナダのサーキット場に『モントリオール・サーキット』ってのがあります。
このモントリオールサーキット場も、とても大きくF1グランプリが開催される場所でした。
特徴は、オーバルケース(楕円形のケース)が使われていることであり、今ではなかなか取り入れてる会社はありません。
モントリオールは、72年に誕生しましたが80年代までこのモデルは人気があったと言われています。
とはいえ、一周回って今見ても先進的なデザインでありかっこいいですよね👍
ではここからは、皆様が大好きな角形モデルをご紹介していきましょう。
カマロ
ホイヤー・カマロは、1968年から1972年の比較的短い間にのみ生産され、そのネーミングは当時インディ500(アメリカのインディアナ州で開催されるF1レース)のペースカーであったシボレー・カマロに由来しています。
ペースかーとは、レース参加者の先導を行う車のことであり、実際のレースが始まる前に先頭に立ってコースを案内する車ってことですね。
駅伝の白バイ的な感じだとイメージしてください。
当時のカレラよりも一回り大きなクッションケースを使ったのが特徴で、自動巻が生まれる前の手巻きクロノグラフ バルジュー72を搭載したものも存在します。
やはり角形なので、堅牢性を感じますしかっこいいですよね👍
モナコ
そして、最後にご紹介するのが皆様ご存知のモナコです。
こちらもモナコ・サーキット場から命名されたものです。
1969年の発表から2年後、の1971年にモナコはブランドアンバサダーを務めるレーシングドライバーのジョー・シフェールの手首にありました。
※ジョー・シフェール
同年には映画「栄光のル・マン」でスティーブ・マックイーンがシフェールを演じ、さらに脚光を浴びることになります。
※スティーブ・マックイーン
ちなみに、スティーブ・マックイーンという方はアメリカ版キムタク的な感じの人だと考えてください。
2001年にキムタクさん主演の『HERO』ってドラマがあったじゃないです。
その時に、キムタクさんがきてたダウンジャケットがめっちゃかっこいいからどこのブランドのものなの?
って感じで、一気にモンクレールが日本に浸透したんですよね。
こんな感じで、マックイーンさんが栄光のル・マンの映画の中で身につけていた時計が最高に注目を浴びるのです。
「モナコ」の大きな特徴は、それまで不可能とされていた、角型ケースでの防水性を、実用レベルで実現したことでした。
このような実用的な実力、当時ブームのピークに達していたモーターレースへの参入、レーシングドライバーとのアンバサダー契約からの映画化などの出来事によって、ホイヤーは誰もが知るモーターレース用としての時計ブランドの地位を確立するのでした。
5、ホイヤーからタグホイヤーへ
現在の会社の名前は、先頭にタグがつきます。
ここからはホイヤーがタグ・ホイヤーへ変わっていく過程を見てみましょう。
どのスイス時計ブランドを見てもそうなのですが、1971年のSEIKOのクオーツショックによって、機械式時計を主力としていた時計ブランドは壊滅的なダメージを受けます。
レーサー用の時計の人気は健在であったものの、クオーツの波に逆らうことができずやはりホイヤー社も段々と業績を落とし始めます。
よって、1982年にピアジェの傘下に入ることとなります。
しかし、その3年後の1985年にピアジェからも売りにだされ、TAGグループから資金援助を受けるという形で復活を遂げます。
そしてこの時に「タグ・ホイヤー」にブランド名が変更されました。
また1999年には、経営をさらに強固にするためにLVMH社の傘下に入ります。
まとめ
ホイヤー好きのお客様とお話ししてると、やっぱりタグホイヤーになる前の、ホイヤー時代の時計はいいですよねぇ。
というお話を、聞くことは多いです。
私もどちらかというと、40年代から70年代のホイヤーの時計はどうにかしててでも身を立てるという!という気概が感じられる時計が多いので、お客様から頂く内容に共感しております。
ブランドの歴史を知ってるからこそ、そのブランドが頑張ってここまでの地位を確立したことによる感情移入なのかもしれませんが、それらを全部含めてその時計の魅力なのかもしれませんね。