機械式時計・手巻き時計 ~ユリス・ナルダンは世界最高のラグジュアリーウォッチとなる~

ユリス・ナルダンといえば高級時計の中でも「超」がつくほどの高級時計の部類に属します。

他のメーカーには見られない、独創的なデザインは見るものをあっと言わせる要素が積み込まれています。

特に有名なのは「トリロジー・オブ・タイム(天文三部作)」と言われる作品、そして2001年に誕生したフリーククルーザーでしょうか。

今までにユリス・ナルダンは4300もの賞を受賞してきました。

天文三部作はギネスブックに登録されたことにより、チェンジメーカーとしての評価も得ていますし、多くの特許を取得して「イノベーション賞」を4度受賞しています。

ユリス・ナルダンのその新たな技術を生み出す発明家の血統はこれからも変わらないでしょうし、私たちを新たな時の旅へといざなってくれるでしょう。
■ユリス・ナルダンの誕生
1823年1月22日。日本がまだ江戸時代の時、スイスのル・ロックルに時計師のレオナール・フレデリック・ナルダンに一人の男の子が誕生しました。

その男の子こそ、今日もブランドネームとして残るユリス・ナルダンです。ユリスが生まれた時点で、スイスはジュラ渓谷の一帯に属するル・ロックルは時計産業が盛んな地域でした。

父も時計師だったユリスは、生まれた時点で時計業界に足を進める運命だったのかもしれません。

父のレオナルドの見習いとして、時計製造を始めたユリスはマリン・クロノメーターや天文時計のような複雑な機構を持つ時計を製造していたウィリアム・デュポワに師事します。

そこでユリスは複雑時計を専門とすることを決めました。それは先の時代にそういった時計が市場に求められるであろうことを予見してのことでした。

そして1846年23歳の若さで自身の名を冠した「ユリス・ナルダン」社を立ち上げたのでした。

■クロノメーターの雄
創業当時からユリスは天文や航海といった時間計測の精度が必要な世界を相手に、時計製造を行ってきました。

マリン・クロノメーターといっても、当時は当然今日私たちが身に着けている時計と比べて精度はまだまだ未熟だったわけです。

しかしユリスはそのマリン・クロノメーターの精度を上げ続けることに力を入れ続けました。

飛行機のない時代、大陸を横断するのは船の役目でしたし、大海原の中で東西南北を示すのは、船乗りたちの生命線でもあるため、ユリスは彼らの助けになろうと必死だったのです。

そして1862年とうとうその活躍が世界に認められる日がやってきます。ロンドン万国博覧会において時計制作の聖杯と、複雑時計部門金賞「プライズ。メダル」を受賞したのです。

1865年に現在も本社が所在している3 rue du Jardinに移転します。1876年2月20日ユリスが亡くなると、息子のポール・デビッド・ナルダンが会社を引き継ぎます。彼もまた父親譲りの優れた時計技師であり、経営者だったのです。

■躍進と没落
息子のポールが後を引き継いだユリス・ナルダン社は目覚ましい躍進を果たします。1878年にパリ万博で金賞、1893年シカゴ万博では銀賞、1906年ミラノ世界博覧会では金賞と着実に賞を受賞し、実績を積み上げていきます。

これらの実績から、航海用のマリン・クロノメーターはほぼユリス・ナルダン社が独占するような形となりました。

1909年にポールの息子、アーネスト・ナルダンも経営に参加すると躍進は止まりません。

マリン・クロノメーターは世界50か国もの海軍に供給され、日本にもユリス・ナルダンの時計が戦艦三笠に搭載されました。

1923年にはヌーシャテル天文台にて開催されたルイ・ブレゲ没後100年記念国際クロノメーターコンテストにおいて1位に入賞。1950年にはヌーシャテル天文台において、すべてのクロノメーター記録を破りました。

しかし徐々に一族経営も厳しくなり、1965年にベルンが共同経営に参加します。

しかし、1970年代に入るとセイコーが開発したクオーツによって、時計業界はクオーツショックを受けます。スイスの時計業界は大激震に見舞われ、それはユリス・ナルダンも例に漏れませんでした。
工場は閉鎖にまで追い込まれ、歴史は潰える寸前でした。

■復活
ロルフ・W・シュニーダーは少し変わっていたかもしれません。22歳の若さでバンコクに時計の輸出入の会社に入ると、ビルマ、ラオス、中国とアジア各国を渡り歩きました。タイに時計制作会社を設立しました。

しかしスイス訪問をした彼は1970年代のクオーツショックを目の当たりにし、経営の難しさを感じます。

1983年シュニーダーは没落したユリス・ナルダン社を買収することに決めました。

しかしクオーツショックを受けた後では、並の時計を製造しているだけでは、再建できないと分かっていました。

そう思っているころ、シュニーダーはスキーリゾートでアストロラーベ(古代の天文学者や占星術者が用いた天体観測機器)に触れ、その復元をしたルートヴィッヒ・エクスリン博士と出会います。

彼は人類学者であり、科学者であり、大学教授であり、時計技師でもあるいわゆる天才でした。
そしてここから天文三部作と呼ばれる作品を開発に着手します。

■天文三部作
1 アストロラビウム・ガリレオガリレイ
名称はシュニーダーとエクスリン博士との出会いのきっかけでもある、アストロラーベとガリレオ・ガリレイの名からとられています。

文字盤は天球を模したもので、黄道十二宮、日食、月食、太陽の位置、月の位置、ムーンフェイズ表示、星の位置表示などをリューズの操作だけで可能とし、14万4千年分の天文情報がプログラムされた複雑の極みともいえる時計で、その複雑さはギネスブックにも登録されることになりました。

2 プラネタリウム・コペルニクス
1988年に発表されたモデルで、名称はプラネタリウムとコペルニクスからつけられています。文字盤は太陽系を模したデザインで、太陽の周りを木星、火星、土星、金星、水星、黄金十二宮が回っています。
65個限定で隕石をしようしたモデルも販売されました。

3 テリリウム・ヨハネスケプラー
1992年発表されたモデルで、名称はラテン語で地球の意味であるTellusとヨハネスケプラーからつけられています。文字盤は北極を中心とした地球が描かれたモデルです。

とりわけアストロラビウム・ガリレオガリレイが複雑を極めていますが、プラネタリウム・コペルニクスも、テリリウム・ヨハネスケプラーも複雑なことには変わりません。文字盤がすべて天体に関わっていることで、これらのことを天文三部作と称しています。

■現在
ユリス・ナルダンは天文三部作に代表されるように、様々な時計を開発してきました。
技術躍進のスピリットは世代を超えても変わりません。

2001年に発表された「フリーククルーザー」は後世に語り継がれることは間違いない傑作です。

そして傑作は根本を捨てることはありません。
時刻を表すのは錨を模した針です。(フリーククルーザーの場合針と言っていいのかわかりませんが)デュアル・ユリス・エスケープメントによってアンクルやガンギ車は取り去られています。

文字盤も針も取り去られ、むき出しになったムーブメントそのものが回転し、下段は時間を表示し、上段の輪列、デュアル・ユリス・エスケープメントは分を表示します。また、リューズもなく、裏のケースを回転させることによって、主ゼンマイが巻き上げられる仕組みになっています。

「フリーククルーザー」は実際に手に取ってみてみないと、何を言っているのかわかりづらいとは思いますが、ぜひ一度この伝説になるであろう時計を実際に見てみてはいかがでしょうか。

銀座の天賞堂などで見ることが可能です。また、フリーククルーザーのみならず、2002年にはダイアモンド製のヒゲゼンマイを開発したりなど、ユリス・ナルダンの技術躍進はとどまることを知りません。