パネライの歴史

オフィチーネ・パネライの時計の歴史

パネライ ヴィンテージウォッチ

 

パネライの時計は「動く芸術」と呼ばれ、世界中の時計愛好家の間で人気を博しています。

パネライの歴史を深く知るには、ブランドの歴史を掘り下げることが1番です。

この高級時計ブランドについて知っておくべき事については、「パネライについて知っておくべき8つのこと」をお読みください。

 

パネライの起源

オフィチーネ・パネライは、現代のイタリア国家の成立より1年前の1860年、フィレンツェに設立されました。

当時、創業者のジョバンニ・パネライは、時計学校、修理工場、販売ショールームを併設する事務所として設立しました。

やがて「オロロジェリア・スヴィッツェラ」と名乗り、スイス時計の有力な販売拠点となります。

 

19世紀後半、パネライはジョバンニとその息子のレオン・フランチェスコのもとで転換期を迎えることになります。

ジョバンニ親子は時計産業の中心地である、スイスの中でも特に有名な業界のリーダーたちと協力し合い、供給関係を築きました。

それがイタリア企業としての売上拡大と、時計生産モデルの基礎確立へと繋がることになります。

ムーブメント、ケース、特殊な部品、そして完成された時計などが、必要に応じてスイスの専門家から、パネライのオフィスへと運ばれました。

レオン・フランチェスコの指導のもと、パネライは機械工学、部品加工、機器設計を中核とした研究開発へと事業を拡大しました。

これは決して時計製造から逸脱したことではなく、その後のパネライの歴史の大部分において、専門的な工具やハードウェアの製作は会社の重要な収入源となるのです。

 

20世紀を迎えて - 1900年代 

20世紀に入ると、ジョバンニの孫であるグイドは、イタリア海軍のレジア・マリーナへの公式納品業者として確立させました。

これは、当初は多様化した設計事務所として急成長していた、パネライの能力に焦点を当てた契約でした。

パネライの初期の軍事契約の大部分は、地雷用の計時(タイムキーピング)と接触トリガー、潜水用ナビゲーションツール、機械化されたコンピューティングデバイスが占めていました。

 

20世紀の変わり目、パネライはのちに世界的に伝説となる軍用時計製造における独自性を確立します。

1915年から1916年にかけて、パネライはビジネスモデルの中心になりつつあった、軍用機器のための自照式照明の開発に取り組みました。

1898年のキュリー夫妻によるラジウムの発見は、この新元素が放出するガンマ線を利用した新しい技術分野を切り開きました。

パネライ独自のラジウム化合物は、硫化亜鉛、臭化ラジウム、メソトリウムから構成され、「ラジオミール」として商標登録されました。

防水時計の誕生 - 1920年代

時を同じくして、パネライのスイスの製造パートナーのひとつであったロレックスは、防水時計の分野で名を上げていました。

ロレックスが1926年に開発した「オイスター」のケースは、時計産業の歴史において非常に重要な開発となりました。

それまでの「防水」(今日では「耐水」)時計は、信頼性が低く、パッケージも不格好で、経済的にも非現実的なものでした。

しかし、ロレックスのオイスター開発により、防水時計は一般消費者でも、実用的に使えるものとなったのです。

 

防水時計の登場は、パネライの最大の支援者の1つであるイタリア軍に対する、新たな販路を生み出しました。

イタリアは第一次世界大戦において戦闘水泳で成功を収め、戦間期には携帯用水中呼吸装置のパイオニアである「デービス・リブリーザー」を開発し、水中爆破の専門家である「フロッグマン」と呼ばれる新しい階級の海上戦闘要員が誕生しました。

防水タイマーはこの新たな構想の成功に不可欠であり、パネライはラジオミールとロレックス・オイスターが、その運命のカギを握っていたのです。

イタリア海軍の時計 - 1930~40年代

1930年代半ばになると、パネライのイタリア海軍当局との取引は最も活発になります。

第二次世界大戦が目前に迫り、北アフリカへのイタリア軍の派遣により、軍の納品スケジュールが早まったのです。

パネライはスイスのロレックスと協力し、完全に組み立てられたムーブメントを搭載したRef.2533オイスターケース懐中時計の納入を手配しました。

パネライはロレックスから特別な同意を得て、ケース、ムーブメント、文字盤を軍用ユーザーの要求に合うように修正することができました。

 

1936年から1938年にかけて、パネライ、ロレックス、イタリア当局が共同で、パネライの軍用時計の決定版となるモデルを完成させました。

それが「3646」です。

1938年から1956年にかけて、この時計はパネライがイタリア海軍に納品する時計としての基幹となりました。

パネライの時計は全てロレックスによって組み立てられ、パネライのイタリア支社では軍の要求に沿うようにそれを改造しました。

ワイヤーラグ、レザーストラップ、2ピースの「サンドイッチ」構造による高視認性ダイヤル、大型のベゼル、革新的な熱可塑性化合物であるプレキシグラスから成る飛散防止クリスタルによって、国内の時計製造者として大いに貢献したのです。

 

第二次世界大戦はパネライにとって、軍事的遺産と戦闘の遺産を作った『るつぼ』でした。

イタリアの水陸両用部隊は「Decima Flottiglia Mezzi d'Assalto(デシマ・フロッチギリア・メッチ・ド・アサルト)」という部隊旗のもとに統合され、パネライの時計と計器を装備して戦場に赴きましました。

そして有人魚雷(マイエーレ)、リンペット機雷(水雷の吸着爆弾)、爆発性高速艇(バルキーニ)を用いた戦闘作戦によって、地中海戦域では連合軍の戦闘機や輸送機を沈めることに成功しました。

その後パネライの独特の戦闘用腕時計は、デシマ社の全社員が携行するようになりました。

 

パネライの時計とイタリアのフロッグマンたちは、上級戦術界で影響力を持つようになりました。

ドイツ海軍はパネライを "Kampfschwimmer(読み方不明) "と呼ばれる自国の精鋭水陸両用部隊のタイムキーパーとして採用しました。

イギリス海軍は当然ながら、パネライの製品を調達することはできませんでしたが、イタリアの「ガンマ」スイマーとパネライのダイブウォッチの両方を模倣することに取り組みました。

そして、1941年12月にHMSクイーン・エリザベス号とHMSヴァリアント号を麻痺させた、アレクサンドリアへのデシマ作戦から約2年後の1943年9月、イギリス海軍は時計の仕様までほぼ同じ作戦で、ノルウェーに停泊中のドイツ戦艦ティルピッツを無力化しています。

 

精鋭戦術戦と、水陸両用特殊部隊が取り入れられる現代的な時代が幕を開け、パネライの時計は軍事史における、この重要な瞬間と密接な繋がりを持ち続けることになったのです。

 

1939年にヨーロッパで戦争が勃発してから、1950年代に冷戦が本格化するまでの間、パネライは限られた数だけ時計を製造し、その軍事的な関係を終わらせ最終的には消費者間でヒットさせるための土台を築くべく、徐々にうまく調和させていきました。

この間、パネライは新しいラグデザインや新しいケース、新しいモデル、新しい形のロック式リュウズ(ゼンマイの巻き上げや時間合わせに使用するパーツ)、そして特徴的な装飾ダイアルを作るための、新しい化学化合物を試し続けました。

 

連合軍の猛攻でイタリア・ファシズムが後退し、ムッソリーニの理念に対するイタリア人の熱狂的な支持も薄れたとき、パネライは戦後の国内外の新しい軍事契約の可能性を見越していました。

その企業努力はほとんどが実を結ばなかったものの、パネライの製品カタログを充実させ、ミレニアル世代の大量消費社会を支えることとなります。

 

1943年に一旦中止されていたクロノグラフ(ストップウオッチ機能を備えた懐中時計または腕時計)プロジェクト「マーレ・ノストラム(製品名:地中海のローマ名)」のデザイン研究が、パネライの民間デビューの舞台となりました。

戦時中のイタリアでは、ロレックスのねじ込み式リュウズのもろさを改善するために、「リュウズを保護する装置」の最初の回路図が作成されました。

この実用的なロックメカニズムは、その後パネライの最も象徴的といえるデザイン要素となったのです。

戦争が終わり、ガンマ線が健康に与える影響についての認識が高まる中、パネライは光る文字盤の塗料の改良に取り組みました。

 

ベータ線放出物質であるトリチウムを利用した新しい発光化学は、1949年に試作品としてデビューしました。

この素材は、その組成と同様に名前も注目されました。

パネライが商標登録したこの物質の名称「ルミノール」は、同名の塗料が廃止された後も長く生き続けることになります。

重要なことは、ラジオミールやルミノールという名称は、大量消費社会になるまでは時計デザインではなく、夜光塗料を意味するものであったということです。

 

パネライは、この少量生産かつ頻繁に実験を行った時期に、ロレックスのポケットウォッチラインから受け継いだ、オリジナルの形状に代わるケースの開発を進めました。

やがてパネライは、ハンダ付けされたワイヤーラグから、一体型ケースへと加工した一体型ラグに変更しました。

ロレックスのねじ込み式リューズへのアップグレードは、1950年にその原型が初めて公開され、そのシステムは1956年に特許で保護されました。

この年、パネライは軍用時計提供者としての最後の大きな開発の一つとして、この新しいリューズを取り入れました。

エジプト海軍との提携 - 1950年代

イタリアの契約会社は、1953年にパネライが戦術用時計を開発したエジプト海軍と協力し、過去と未来のパネライ製品の特徴的な要素を取り入れた暫定モデルを提供しました。

60mmの「ビッグ・エジツィアーノ」は、「ルミノール・サブマーシブル」に類似しているケースを採用し、回転ベゼルや目盛り付きベゼル、一体型ラグ、リューズを守る装置などを備えています。

 

しかし、エジプト当局の特別な要請があったため、この時計はパネライ独自のラジウム化合物「ラジオミール」の最後の使用品となりました。

「ビッグ・エジツィアーノ」の納入は、パネライにとって岐路となる瞬間であり、戦術時計の重要な請負業者としてのパネライの役割の移り変わりを告げるものでありました。

 

1950年代の終わりは、パネライとロレックスの製造提携が終わる時期でした。

ロレックスとの関係が正式に終了した1956年から1972年まで、パネライの計器部門は衰退の一途をたどることとなります。

この年、グイドの息子であり戦術用時計の計画のほぼすべてを監督していた、一族の末裔であるジュゼッペ・パネライが死去しました。

 

パネライの新時代-1970年代~90年代

1860年の創業以来、パネライ以外の人物としては初めて、元イタリア海軍将校でエンジニアであったディノ・ゼイ氏が同社を率いることになりました。

1972年から1990年代初頭まで、ゼイはダイビングツール、航空宇宙部品、無線機器の分野で残されたチャンスに集中するよう指示しました。

チタン製のダイビング用モデルの試作品をいくつか製作したこと以外は、時計製造の活動は事実上停止したのです。

 

1993年、パネライは新しい時代の幕開けを迎えました。

かつての時計職人であったゼイが、実権を握った初期の頃この軍事的遺産が、復活しつつある高級機械式時計市場において、ブランド化することができることに気づきました。

ロレックスが、ダイバーズモデルを強みに台頭してきたのを目の当たりにしたパネライは、戦術的な製品や試作品のバックカタログ(既刊目録)をかき集めて、133年の歴史上初めてブランド化された消費者向けの時計を世に送り出したのです。

 

イタリアの軍艦ドゥランド・デ・ラ・ペンヌ号で発表された3つの1993年モデルは、パネライの軍事的伝統に由来する名前を備えています。

最初のモデルは1943年のマーレ・ノストラムの試作品を模したもので、パネライの現代史における脚注に過ぎません。

しかし、「ルミノール」の刻印がある他の2つのモデルは、パネライにとって画期的となる消費者向け製品の新機軸となりました。

発光塗料として用いるよりも、時計のケースデザインとして知れ渡ることになったルミノールという名前は、44mmのケース径、パネライのリューズプロテクターが備わり、そ後のミリタリーモデルの一体型ラグの代名詞となったのです。

 

当初、パネライのラインナップに対する世間の反応は冷ややかなものでした。

親会社の限られた商業的知名度、ほとんど存在しない代理店、最小限のマーケティングが相まって、この時計は他の業者と対峙し、見切り品に追いやられてしまったのです。

同年発売された特大サイズのオーデマ・ピゲのロイヤル・オークと同様、パネライのデビュー作はオピニオンリーダー(初期採用層)たちの獲得に苦戦しました。

しかし、オーデマ・ピゲとは異なり、パネライは既存の顧客、販売店網、広告予算などを活用することができず、軌道修正することができませんでした。

 

しかしながらパネライの販売不振からの打開は、ある俳優が映画でパネライの時計を使用したことで解決されることとなります。

俳優のシルベスター・スタローンが、ローマでアクション映画「デイライト」の撮影中にパネライを知り、ルミノール・マリーナを購入し、カメラに装着して撮影に臨んだのです。

そのルックスに惚れ込んだスタローンは、ルミノールの「スライテック」ブランドの特注品を次々と大量注文しました。

 

これはパネライにとって最初の大量注文であり、また宣伝効果もありました。

多数のスポンサーなしの映画出演や、アーノルド・シュワルツェネッガーなどのスタローンの友人たちの手首にも着けられたことで、パネライの知名度が上がり、初期の消費者需要を喚起することになりました。

 

1997年、パネライは軌道に乗ります。

パネライのこの初期成長と、巨大なダイビングウォッチに対する一般市場の需要が膨らんだことより、ヴァンドームグループ(現在のリシュモン社)は、パネライに投資することを決めました。

そして約150万ドルで、オフィチーネ・パネライはヴァンドームの傘下に入ることとなりました。

これにより、パネライはマーケティング、製品開発、流通の重要な資本を手に入れることができたのです。

 

パネライ愛好家とのつながり - 2000年代

1997年から2014年の間に、現在のオフィチーネ・パネライの顧客層、ブランドイメージ、製品ラインなど、実質的なすべての特徴が生まれました。

 

パネライは、インターネットの宣伝力の恩恵を受けた最初の時計ブランドです。

パネライの公式ウェブサイトはこの業界では一般的なものでしたが、パネライの話題をネット上に広めたのは、サードパーティやユーザーが作成したコンテンツだったのです

ウェブサイトやウェブフォーラムでは、パネライの製品やモデルの在庫状況、戦術的功績の歴史などが、コレクターたちの注目の的となりました。

 

2000年に開設されたPaneristi.comをはじめとする先駆的な時計コミュニティサイトでは、数千人にのぼるパネライファンのネットワークが世界中に広がりました。

ネット上で次第に増えた、自称 "パネリスティ "たちは、ブランドの最高のセールスマンとなりました。

ウィキペディアが登場する1年前、YouTubeが誕生する5年前、そして最初のRedditが登場する5年前、Paneristi.comが率いるパネライのファンコミュニティは、仮想上の試作品としてインターネット社会の幕開けを告げたのです。

 

パネライの魅力は、特殊部隊との歴史的なつながり、用途に応じたデザイン、そして控えめなイメージにあるのだと、ヴァンドームやそのエージェントが伝えられなかったことを、オンラインユーザーは伝えました。

パネライを身につけることは、冒険の思い出を所有するようなものでした。

アクセサリーに抵抗があるバイヤーも、ルミノールには実用的な大きさがあると評価しました。

ブルーカラーの労働者用時計という気取らないイメージで、他の高級時計ブランドにはありがちな、お荷物感を払拭したのです。

 

そして、リシュモン社(ヴァンドームグループの後継)は喜んでパネライに投資し続けました。

1993年から1997年のヴァンドーム時代の初期生産数は2,000本未満と推定されていましたが、リシュモンはパネライの生産を加速し、2013年までに年間7万本以上の生産を達成しました。

この間、パネライは、軍需産業から新興の企業へ、そして主要メーカーへと発展していき、いくつもの節目を超えていきました。

 

リシュモン傘下になった後も、パネライの製品はたくましく革新的なままでいることを大切にしました。

そしてパネライの歴史の中でも重要なモデルやキャリバー、エピソードに焦点を当てた限定モデルを頻繁に発表しました。

パネライの梱包と保証文書は、そのセット内の別の文書と類似させるという「相関性」をコンセプトとした初の取り組みを実施しました。

またリシュモンが当初に決定した、標準的なストラップ交換用具と補助ストラップを同梱するという施策により、パネライのオーナーコミュニティーの中では、アクセサリーストラップという新しいサブカルチャーが生まれました。

その後発表されたモデルには、便利なクイックリリースラグが採用されており、このトレンドを生かしたものとなっています。

 

2002年、ヌーシャテルに専用の生産施設が開設されました。

2005年、この工場はリシュモン社内のヴァル・フルリエ研究開発部門と連携し、スイスとイタリアのメーカーによる初の高級ムーブメント、キャリバーP.2002が発表されました。

さらに2000、3000、5000、9000シリーズのキャリバーが発表され、新しいコンプリケーションと最高級仕上げの組み合わせが特徴となっています。

また、過去への憧憬として時折発表される新古品の歴史あるムーブメントは、パネライの勢いと歴史に裏打ちされたイメージに磨きをかけました。

 

パネライの時計は、その伝統と価格が高くなるにつれて、モデルラインナップも充実していきました。

1997年には早くも戦前の主力モデルを模した限定モデルが復刻され、コレクターから熱い注目を浴びました

そして消費者が求めるような、パネライの歴史をより反映した多様な商品を提供するために、パネライは2つ目の主要モデルラインである「ラジオミール」を開発しました。

パネライのミリタリーモデルの先駆けである3646のケース形状とリューズ配置をベースにしたラジオミールは、ルミノールと並んでパネライの今の製品カタログの第2の柱となりました。

パネライの歴史を知る

今日、パネライはリシュモンの100%子会社になり、その歴史的モデルをベースに様々な種類のウォッチをラインナップしています。

ルミノールとラジオミールが各バリエーションの中心でありつつも、パネライは貴金属や高度なコンプリケーション、60mmから40mmまでのケースサイズなど、製品の幅を広げてきました。

 

その一方で、新製品を発表するたびに、パネライの歴史の重要性を再認識させられます。

1940年代、50年代以来見られなかった試作品や、限定生産の機能が定期的に再登場し続けるのです。

とりわけ、3646のオリジナル47mmケース、「ビッグ・エジツィアーノ」の回転式ダイブベゼル、1980年代の「1000メートル」試作品のチタンケース、オリジナルのマーレノストラムクロノグラフの巨大な形状などは、リシュモンの指導により再登場しています。

 

オフィチーネ・パネライの生産量、販売網、知名度はブランド史上前例のないレベルに達しています。

しかしながら、同社の時計の魅力を理解する上で欠かせないのは、何よりもこの歴史でしょう。