フランソワ・ボーゲル 知られざるケースメーカーの巨匠
フランソワ・ボーゲルのケースについて動画でご覧になる方はこちらから↓
防水の腕時計が登場する前は、腕時計といえば、単に実用的な機能も少しついたジュエリーの一種と捉えるのが自然だったといえます。
1926年に発売されたロレックスのオイスターのケースは、防水機能を備えた時計を商用化したことで高い評価を得ました。
しかしロレックスよりも前に、防水ケースで特許を取得したケースのメーカーがもう一つありました。
このメーカーは20世紀を通して、スイスの主要な時計ブランドにケースを供給し続けてきました。
このメーカーがスイスの老舗メーカー『フランソワ・ボーゲル』です。
ボーゲルの独創的な設計は、その後何年にもわたって多くの時計に使用されました。
フランソワボーゲルの防水ケースが有名になったのは、パテックフィリップが初となる防水の時計の生産を始めることになった際、これに合うのがボーゲルだけだったためです。
しかし、このボーゲル社の影響は、単に最も由緒ある時計ブランドであるということだけではないように感じられます。
本日はそんなほとんどの人が知らない『フランソワ・ボーゲル』社について解説していきます。
動画を最後までご覧頂くことで、ケースの魅力はもちろんのこと、ボーゲル社とロレックス、ボーゲル社とパテックフィリップの関係をしっかり理解できると思いますので是非とも最後までご覧ください。
フランソワボーゲルの歴史
フランソワボーゲルの歴史は1891年、ジュネーブのフランソワボーゲルが防水機能のある携帯時計(懐中時計)の機構について、スイスの特許CH4001を申請したことに始まります。
この機構では、ムーブメントを一つの部品のみからなるケースにねじ込み、ぴったりフィットするベゼルと風防(クリスタル)で封じるというものでした。
この機構によりムーブメントが防塵にもなったのは、当時大きな革新的技術でした。
1894年の広告には、ボーゲルのねじ込み式のケースが載っており、特許を取得した技術であることがわかります。
20世紀ごろのスイスの時計産業は主に、何百もの部品メーカーがケース、文字盤、ムーブメント(エボーシュ)などそれぞれ専門とする部品を作り、また別のブランドに供給するという状態でした。
こうした数多くのメーカーのうちの一社として、ボーゲルは第一次世界大戦の間、防水機能つきの時計のケース(主に携帯時計用)をIWCやロンジンといったブランドに供給しており、戦後にはこの需要が爆発的に急増しました。
ボーゲル社はボーゲル家の一族が経営していましたが、1924年にトーバート家に売り渡され、新たな企業トーバート&フィルス(トーバートと息子たちの意味)となりました。
なお、本記事でこれ以降「ボーゲル」と書く際はトーバート&フィルスに買収されたボーゲルを意味します。
この頃、防水の時計がもう一つ市場に現れました。
ロレックスのオイスターのケースです。
ボーゲルが申請した特許とねじ込み式のケースを使用した当初の腕時計の例。画像はSJXおよびVintage Watchstrapsより
「ロレックスの時計、非公式の歴史(Rolex Wristwatches, An Unauthorized History)」という本の中で著者のジェフリー・ヘスとジェームズ・ダウリングは、1920年代にロレックスはボーゲルのねじ込み式のケースを一部の時計に使用していたと記述しています。
「これは、ロレックスの時計の設計において非常に重要な開発でした。ケースで何かの物質から保護するような目的で設計されたのは、ロレックスが生産する時計としてこれが初めてでした。」とヘスとダウリングは述べています。
言い換えると、ロレックスが初めての本格的なスポーツウォッチを作ることができたのは、ボーゲルのおかげでした。
ロレックスのオイスターケースも、その直後の1926年に発売されましたが、ボーゲルのねじ込み式のケースを連想させるような似た作りでした。
実際にハンス・ウィルスドルフとロレックスは後に、ボーゲルのケースに関する特許を一件購入しています。
ここからは私の予測なのですが、
実際には、ロレックス社はイギリスのオイスター社を買収して、防水機能があるケースを手にします。
ロレックスのハンス・ウィルスドルフが創業したのが、1905年で場所がイギリスでありスイスに拠点を移したのが1920年のことです。
イギリスのオイスター社を買収したのが、1926年なのでロレックスとオイスター社は比較的時計業界では、近いポジションにいたのだと思います。
1920年代にボーゲル社のケースを使用していたという記述を見ると、おそらくボーゲル社の特許を購入したのは1925年だと推測されます。
その後おそらく、ロレックスは1925年にオイスター社にボーゲル社の防水ケースを製造するように依頼し、問題なく製造することが確認できたためにそのまま買収してしまったのではないかと思っています。
当時のロレックスとボーゲルの関係については、こうした状況証拠しかありませんが、オイスターのケースが少なくともボーゲルのケースの影響を大きく受けていることは明らかです。
十角形のケースの開発
このころまでに、ボーゲルが開発したねじ込み式の機構の特許はとっくに期限が切れていました(言うまでもなく、それまでは特許のおかげで他のメーカーをしのいで進歩していました)。
この状況を認識していたトーバート&フィルスは次なる革新的なケースに至るまで様々な試作を重ねました。
中でもヴィンテージ時計のコレクターであれば一番わかりやすいのは、十角形のケースでしょう。
トーバート&フィルスが発表した初めての十角形のケースに関する 1939年の広告。Clinique Hologereより
元々トーバート&フィルスはずっと、十角形のケースを製造し続けていました。
この時はケース、裏蓋ともに十角形でした。
しかしこの十角形のケースは、様々な理由で実用的ではありませんでしたし、言うまでもなく美しさにも欠けてしまいました。
そのため結局はケースバックのみを十角形にし、トーバート&フィルスが用意した特殊な工具で残りのケースに、しっかりとねじ込むという機構に落ち着きました。
トーバートがこの設計で特許を取り頑なに守ろうとしたのは、ねじ込み式であるかどうかに関わらず、他のケースメーカーがトーバートの特権ないし他の何らかの方法をケースバックに使用せざるを得なかったことを意味しています。
ミドーのマルチセンタークロノは初期の耐水性クロノグラフで、ボーゲルの十角形のケースバックが使用されていました。S. Song Watchesより
ボーゲルは何十ものブランドに何千、何百という十角形のケースを供給してきました。
その取引先には有名なところでは、パテックフィリップやヴァシュロン・コンスタンタン、あまり知られていないですがコレクターが好むところではミドー、モバード、ウエストエンド・ウォッチカンパニーがあります。
この技術はボーゲルが特許を取得したコルクステムシール(ロレックスのオイスターのケースのようにリューズを差し込まなくてもよいように開発されたもの)と並んで、防水の時計を作るにあたり大きな一歩となりました。
歴史的重要性の高いパテックフィリップ
歴史的に重要性が高いことが、コレクターが集める人気のものにつながることがよくあります。
19世紀の終わりから、ボーゲルは防水時計の開発と製造の最先端を行っていました。
その中身は、当初は全く新しいねじ込み式のケースの設計で、その後は多くのブランドで製造された十角形の時計用のケースでした。
この歴史さえも見落とされることがあります。
悲しいことに、過去半世紀とそれ以降、ボーゲルが時計のケースの開発と設計に貢献していたことはあまり認知されていません。
また「ボーゲルが時計を防水にし、時計の設計の限界を押し広げたことは、時計学において永遠に殿堂入りする価値があるほどの栄誉です。
パテックフィリップの型番Ref.565にはブレゲの数字と、肝心の十角形の耐水性のケースバックが使用されています。Hodinkeeより
現在、パテックフィリップの中でも有名な型番の時計に使用されている裏面のケースのメーカーとしては、ボーゲルが最もよく知られていると思います。
パテックフィリップがカラトラバ(型番Ref.96)を初めて製造する際に、既存の設計を使用しながらスナップ式のケースを作って供給しましたが、すぐに特許を取得している十角形のねじ込み式のケースを使用するよう要請がありました。
パテックの時計の型番は数多くありますが、中でもこの十角形のデザインが使われたのはカラトラバの型番438が最初で、その直後には型番565や、他社にまねできないクロノグラフである型番1463でも使用されています。
ボーゲルは、1960年代半ば頃までパテックフィリップに、ケースを供給し続けていました。
型番565と1463は、歴史的重要性が高く、また奥深い美しさも兼ね備えていることから、ヴィンテージ時計の中でもコレクターに特に人気があります。
型番565には、特有のモノコック構造が見れるので他の時計と比べると、すぐに違いが分かります。
また型番1463はパテックフィリップのヴィンテージと呼べる時代に作られた時計の中で唯一、防水の時計なので、その珍しさと重要性から、他の時計とは違い特別視されています。
ボーゲルが革新的な防水機構を実現したおかげで、パテックフィリップは着用したままどんな運動でもできるスポーツウォッチを製造することが可能になり、現代のフェーズへと進むことができました。
これにより、ジュネーブの時計メーカーの市場が新たに世界へと開かれ、現在でもその恩恵を受けています。
ヴィンテージのボーゲルのケースは、現代の基準で見ても十分に頑丈で、現在でも身に着けて使用することができます。
しかし、ボーゲルのケースを集めるのが楽しいのは、ボーゲルが製造したケースが、パテックフィリップやヴァシュロンコンスタンタンといったブランドの人気が高い型番のヴィンテージ時計に使われれているから、というだけではありません。
ボーゲルのケースは、手の届きやすい日常使いできるブランドでも使われているためです。
モバードとフランソワ・ボーゲル
20世紀半ばにボーゲルのケースを使用していた有名なブランドは、パテックフィリップの他にモバードがあります。
モバードは社内の工場でクロノグラフと、カラトラバの時間機能のみの腕時計を製造しており、その時計はもっと高価なブランド名が文字盤に書かれていてもおかしくないほど高価に見えます。
前回の動画で話してる通り、時計の品質に対して過小評価されているということですね。
感覚的には当時の『ロンジン』や『ブレゲ』と同じくらいになると思います。
中でも最も美しいのは、モバードが自社で製造したクロノグラフキャリバーM90を、パテックフィリップの型番565と同じケースに格納している珍しい時計でしょう。
こうして作られたのが、ボーゲルのいいとこ取りをした時計で、上品さと手の届きやすさを共に兼ね備えています。
他のブランドの製品と比べると、型番565や1463のケースはより洗練されており上品であるという違いはありますが、ボーゲルのデザインは角が鋭く面は滑らかなのですぐにわかります。
パテックフィリップに使われているボーゲルのケースは流れるような滑らかなラインであるのに対し、ミドーやモバードなどのブランド向けのボーゲルのケースは角張った固い印象なので、「働く男のパテック」という感じがします。
裏蓋の裏面の刻印と意味
ボーゲルのほぼ全てのケースバックの内側には「FBと鍵」とイギリスの特許番号の刻印がはっきりと見えます。
典型的なボーゲルのケースバックのデザインの特徴としては、十角形であることに加えて、ボーゲルが生産したことを示す「FBの文字と鍵のマーク」が内側に刻まれています。
ケースバックの内側に「BRIT PAT 385509」とだけ刻まれているものもあり、これはボーゲルの十角形のデザインに関する、スイスの特許に対して割り当てられた、イギリスの特許番号を示しています。
ボーゲルがコレクターを惹きつける理由の一つには、パテックの型番1463であれば値札の0が増えますが、ここに使われているのと同じ特許技術を使用した防水ケースの時計を、お値打ちな価格でミドーやモバードから選ぶことができることにあるのだと思います。
まとめ
ボーゲルが取得した数々の特許によって、時計の実用性が新たな段階へと達することができたことは非常に価値が高いと感じます。
時計とは常に芸術であり科学でもあります。
大切なのは外見でもあり機能でもあります。
フランソワボーゲルほど、このバランスを上手く取っているケースメーカーは他にないでしょう。
ボーゲルは時計のケースに防水機能を備え、美しいデザインにしました。
ボーゲルとトーバート&フィルスが過去になし得た功績がなければ、今の防水の時計、つまり現在のスポーツウォッチはどれも全く違ったものになっていたでしょう。
ボーゲルのケースを使用した時計が、これほど特別でコレクターに人気になっているのは、歴史的な重要性と時を経ても変わらぬ美しさという二つの要素が共に備わっている珍しい時計であるためです。