世界3大腕時計 ヴァシュロン・コンスタンタン(Vacheron Constantin)の歴史
動画でヴァシュロンコンスタンタンの歴史をご覧になる方はこちらから↓
今日のこの記事はですね、世界3大時計ブランドの1つでもあるヴァシュロン・コンスタンタンについて、その歴史と魅力をしっかりと解説して参ります。
創業は1755年であり現在では、約270年の歴史を持つ老舗ブランドとして知られていますが、常に順調というわけではありませんでした。
しかし、1929年に起きた世界大恐慌を乗り越え、クオーツショックを乗り越え現代まで続いている世界最古のブランドです。
なぜ、世界3大時計に時計ブランドの1つに君臨し続けているのか、というのはその歴史を紐解けば分かってきます。
ヴァシュロンコンスタンって何が凄いの!?
ジャガールルクルトとの関係は?
そういう思いがある方こそ、是非とも最後までお付き合いください。
18世紀のヴァシュロン・コンスタンタン
1755年9月17日、既に優秀な時計技師であり設計士でもあった、ジャン・マルク・ヴァシュロン(Jean-Marc Vacheron)がジュネーブに時計工房を開きました。
その後、1785年にはジャン・マルクの息子であるアブラハムが事業の指揮をとり、1810年に孫のジャック・バルテルミーが会社を継ぐことになりました。
19世紀のヴァシュロン・コンスタンタン
3代目のジャックはフランスとイタリアへの輸出を開始し、事業の領域を拡げるとともに、王族や貴族など上流階級の顧客を獲得していきます。
1812年、ヴァシュロン社は1時間ごとと15分ごとにチャイムが鳴るクォーターリピーター時計を初めてデビューさせました。
ダイヤルには「ヴァシュロン・ジュネーブ」というサインが入り、イエローゴールドのケースにエナメルダイヤル、ブルースティールの針、細かい彫刻が施された豪華な時計でした。
なぜこのような時計を作ったかと言いますと、この時代の取引相手は王族や貴族であり、時計というのはただ時間を図るものではなく工芸品のような、装飾品の1つとしての役割があったからなんですね。
そんな感じで、基本的にはオーダーメイドで製作し、時計以外の装飾の部分にもかなり力を入れて作られていたために、当時からデザイン性は非常に重要な要素だったんですね。
この頃から、デザインの重要性を理解していたのでそれ以降も、常に高級ブランドとしての洗練されたデザインを展開していくことになっていきます。
ヴァシュロン・コンスタンタンへ社名変更
※フランソワ・コンスタンタン
事業が拡大するにつれ、ジャックは一人で会社の経営を続けることが困難になり、1819年、彼はイタリア出張の際に見つけた、経験豊かなビジネス戦略家のフランソワ・コンスタンタン(François Constantin)を共同経営者として迎え入れ、この時に社名が「ヴァシュロン・コンスタンタン」となります。
共同経営者に迎え入れられたジャックの元に、フランソワから手紙が届きますが、その中の一節である「最善を尽くそう、それを試みる事は常に可能である」という言葉は、現在まで同社のモットーとなっています。
同社の時計は、元々1811年時点でフランスの貿易会社によってアメリカに輸出されていましたが、海外でのマーケティングと販売を得意としていたフランソワの手腕により、より多くの時計をアメリカやブラジル、キューバに販売し大きく販路を拡げていくのでした。
1854年にフランソワ・コンスタンタンが亡くなり、続いて1863年にはジャック・バルテレミーも亡くなります。
その後は一連の継承者たちが後を継ぎ、有能な従業員たちが事業を維持し守り続けました。
1872年にはジュネーブ天文台で開催された、初めてのクロノメーター・コンクールに参加し、高い評価を受けます。
また1885年には、同社は初めて耐磁性のある懐中時計を作り、1887年にはスイス国家展示会で金メダルを受賞したことを受け、株式会社に再編成されました。
その後19世紀の終わりまで、同社はダブルフェイスの懐中時計や永久カレンダー付きの時計、女性のためのブレスレット型腕時計などを製作し、大きなブームを巻き起こしたのでした。
そう言った功績を背景に、会社が一目で分かるようにと1880年からあの有名なマルタ十字のロゴを会社のシンボルとして使い始め、1890年には会社のロゴとして特許を取りました。
これは、より高い精度を実現するために香箱のカバーに実装させた、十字型のパーツから着想を得たものでした。
ヴァシュロン・コンスタンタン ルショーの功績
先ほど説明したような、コンクールでの受賞にはヴァシュロン家、コンスタンタン家だけで実現できるものではありませんでした。
そのようなコンクールが開催される前の1839年、ヴァシュロン・コンスタンタン社は、時計職人で発明家でもあったジョルジュ・アウグスト・ルショー(Georges-Auguste Leschot)を雇い入れ、エボーシュ(未完成のムーブメント)を作るための工作機械を開発します。
ルショーは長年、機械を使って製造できるレバー脱進機の設計に携わっており、ムーブメントの連続生産が将来の目標でしたが、彼はすぐに監督者兼技術責任者となり、1842年にはヴァシュロン社をスイス初の近代産業時計メーカーに持ち上げたのです。
そして1845年には、自社製の脱進機やエボーシュを他の時計メーカーに販売し始めます。
ルショーはまた、初めて「パンタグラフ」という装置を発明し、様々な時計部品を高い精度で複製することを可能にしました。
これによって時計製造は工業化の時代に突入し、ルショーは1844年にジュネーブ芸術協会から金メダルを受賞したのでした。
ですので、1800年代中頃以降のヴァシュロンコンスタンは自社で高精度のムーブメントの開発が出来ると共に、大量生産のシステムも構築してたことから他社にも提供していたんですね。
複雑コンプリケーションへの挑戦
1900年初めには、透明の文字盤からムーブメントを見ることができる、カレンダー付ミニッツリピーター懐中時計を作っていたヴァシュロン社ですが、この時計のカレンダーはまだ、うるう年の2月29日には手作業による修正が必要でした。
その後同社は1929年、クロノグラフ、永久カレンダー、ミニッツリピーター、グランソネリとプチソネリを搭載した「グランドコンプリケーション懐中時計」を完成させます。
これは当時の時計製造技術を、すべて盛り込んだものでした。
この時計は、エジプト国王ファード一世に見せるために作られたもので、ケース裏には王室の紋章がエナメルで描かれ、12時の位置には曜日と日付の表示窓、9時の位置には月と年のサブダイヤル、3時の位置の30分カウンター、6時の位置にはスモールセコンド付きムーンフェイズを備えていました。
その後、同社はファード一世の息子であるファルーク国王のため、5年の歳月をかけてさらなる超絶級のコンプリケーション時計を開発します。
1935年、この時計はジュネーブ政府から新国王への贈り物となりましたが、14種類の複雑機構が搭載され、使用された820個の部品のうち55個がジュエル軸受というものでした。
ジュネーブシールと20世紀からの品質
1901年、ヴァシュロン・コンスタンタンのムーブメント(キャリバー)が、初めてジュネーブシールの認定を受けます。
ジュネーブシールとは、スイス政府及びジュネーブ州による基準に基づいた品質規定を証明するものであり、時計がジュネーブの職人によって作られ、高い品質や精度を有している証でもあります。
これは、それぞれのパーツの加工方法や装飾方法、組み立てやその他細々とした部分までもが詳細に規定されており、取得は物凄く難しいと言われています。
ロレックスやオメガでも自社基準の厳しいクロノメーター基準が設けてありますが、ジュネーブシールはこれらの基準よりもかなり厳しいそうです。
それも発明家ルショーの功績であり、このジュネーブシールは現在のヴァシュロンにも刻印されていることを見ると、高級ブランドたる所以を感じますよね。
※ヴァシュロンコンスタンタン初めてのブティック
1906年、同社はジュネーブに初のブティックをオープンします。
この頃には、『ルーマニアのマリア王妃』や『ナポレオン公』といったそうそうたる顧客から注文を受けるようになっていました。
翌1907年には、高い精度を持ち、どんな悪天候でも機能するクロノメーター基準懐中時計「クロノメーター・ロワイヤル」を発表し、商標登録します。
※ヴァシュロンコンスタンタン クロノメーターロワイヤル
これは当時、コーヒーの生産で富を築いた、ブラジルの富豪たちの要望に応えて作られたと言われています。
そして1912年、ヴァシュロン社初の腕時計が発表されます。
フランス語で樽(たる)を意味する「トノー」という形のケースをしたイエローゴールドのモデルは男女ともに人気を博し、登場するやいなやブランドのアイデンティティの一つとなりました。
この腕時計は、放射線状に広がった1から12までのアラビア数字と、外周にミニッツトラックが表示されているシルバーの文字盤が特徴的で、当時流行っていたアールデコのデザインが踏襲されています。
このあと20世紀末まで、このトノー型ケースには様々なコンプリケーション(複雑機構)が搭載されていきました。
第一次世界大戦が始まると、ジュネーブにアメリカ海外派遣軍の軍備調達局が置かれました。
1918年、ヴァシュロン・コンスタンタン社は同局から数千個のクロノグラフ懐中時計を受注します。
要求された仕様は、ステンレスシルバー製のケース、急激な温度変化への耐性、暗闇でも視認できる夜光塗料付き針、といったものでした。
この契約は1920年まで数回更新されました。
ジャガールクルトとの提携
そんな第一次世界大戦が終わった後、1929年に始まった世界恐慌によって、ヴァシュロン社もそれまでの通りの経営が困難になってしまい、事業縮小をせざるを得なくなりました。
腕時計は発売していたものの、この頃のメインの稼ぎ頭は富裕層をターゲットとした複雑機構を備える懐中時計や、装飾豊かな宝飾レディースウオッチであり、世界恐慌によってそう言った高級宝飾品が全く売れなくなってしまったのです。
そんな製造がほとんどストップしてしまい、事業の継続すら厳しい状況の中、新技術の開発は継続されていました。
販売不振でありながらも、この努力が続けられていたという事実は、高級時計ブランドとして名を挙げただけでなく、ブランドが本当に持つ『高級ブランドの姿勢』の本質を物語っていると思います。
そのため、33年と34年には10分の1秒まで測定できる、スポーツ競技用の記録計を完成させ、技術革新を怠っていませんでした。
技術革新を進めるも、不況から乗り切る決定打にはならず深刻な経営危機から脱する転換点となったのはジャガールクルトとの提携でした。
当時は、ジャガールクルトはオメガやロンジンと共に時計界の最高峰に君臨していたことと、富裕層をターゲットにしてなかったことで不況下であっても経営は盤石なものだったのです。
この提携 は、ジャガー・ルクルトにヴァシュロン・ コンスタンタンが吸収合併されるという形で合意がなされ、2社に加えて多くの子会社を含んだ共同企業、工業製品商事株式会社(SAPIC) が新たに設立されることとなりました。
他の動画でも解説していますが、吸収合併や買収された後のブランドはほとんどの場合、ブランド名だけが残り全く別の時計が作られるようになります。
しかし、この吸収合併で幸運だったのは、 ヴァシュロン・コンスタンタンの文化や物作りに対しての姿勢がそのまま尊重され、それぞれが独立したブランドとして継続されたことです。
感覚的にいうと、車界の王者はロールスロイスですが親会社はBMWになります。
かといって、ロールスロイスがBMWみたいになるわけではなく、ロールスロイスの意思をそのまま受け継いでますよね。
ただし、この提携がただの資金投入によって、バシュロンを救っただけなのかというとそうではありません。
そのひとつが、”今後ジャガー ルクルトのムーヴメントを購入する"という契約でした。
しかし、これはヴァシュロンにとっては好都合だったとも言えます。
そもそも、ジャガールクルトはこの時には自社でムーブメントを作れるようになっていましたし、それを他社に提供できる力がありました。
先ほども説明した通り、ヴァシュロンも自社でムーブを作ってましたが、それは懐中時計でありこれからの時代は腕時計の時代へ変わろうとしていた頃だったんですね。
そのため、懐中時計から腕時計への時代の流れに上手に乗ることができ、提携によって主力が腕時計へと変わり、ここから本格的な腕時計の生産へと進んでいくことになります。
では、ここからはそんなジャガールクルト社製ムーブメントを搭載した、ヴァシュロンコンスタンタンを見ていきましょう。
ジャガールクルトムーブメント搭載のヴァシュロンコンスタンタン
こちらの画像は、どちらのムーブメントもジャガールクルトで作られたムーブメントなのですが、よくよく見てみると少し違う部分があります。
ちなみにムーブメントの番号なのですが、会社によってナンバリングされるので、同じムーブメントだったとしても、同じキャリバーナンバーになるわけではありません。
そのまま搭載されることはなく、それぞれの会社が少しコンバートするので厳密には違うムーブメントになるということですね。
話を戻しまして、ムーブメントに記載されてるブランド名はもちろん違いますが、ジャガーに搭載されていたCal.803には耐震装置に、インカブロックは搭載されていませんが、ヴァシュロンのCal.1003にはインカブロックがあります。
また、高級感が出るようにヴァシュロンの方には、ゴールドでメッキを施してありますし、また面取りもジャガールクルトのものに比較すると、滑らかになっており高級機に相応しいムーブメントに仕上げられているのです。
今回挙げたのは、ほんの一例であり実際には20種類くらいが、ヴァシュロン社に提供されています。
また、ジャガールクルト社製のムーブメントは外観も、性能も非常に評判が良くマニュファクチュールとしても信頼されていたために、同じ世界3代時計ブランドであるオーデマピゲにも搭載されていました。
ちなみに、このCal.1003ムーブメントなのですがヴァシュロン社からは1955年に発売され、ちょうどその年が創業200周年の節目となる年でした。
当時では世界最薄で、厚みが1.64mmしかないこの時計はジュネーブシールの認定を受け、超薄型ムーブメントの代表となります。
このように、ジャガールクルトとの提携はヴァシュロン社にとって結果的には、マイナスではなかったですし、どちらかというとプラスになっていることは、現在のヴァシュロンの時計のアンティーク市場の評価を見れば明らかでしょう。
大恐慌中であっても品質を落とさなかったヴァシュロン社は、1930年代から高級時計会社としてパテック・フィリップ社と並ぶことになっていくのでした。
パテックフィリップの歴史と魅力については、こちらの動画で詳しく解説しておりますので興味のある方はこちらの動画もご覧ください↓
そんな良好な関係を築いていた両社でしたが、1958年に歴史が動きます。
当時、ルクルトの製造を任されていた工場の社長だった『ジョルジュ・ケトラー』が、ヴァシュロン・コンスタンタンの大株主となり、SAPICから独立したのです。
このことによって、約30年間続いたジャガールクルトとヴァシュロン社の提携関係は解消されることとなりました。
とはいえ、一番厳しい時代をヴァシュロンの持つブランドに敬意を持って扱った、ジャガールクルト社と提携出来ていたことは幸運だったと言えるでしょう。
ヴァシュロン・コンスタンタン 数々の世界記録
その後、1969年にジョルジュ・ケトラーが亡くなると、会社は彼の息子のジャックに引き継がれ、クオーツショックを切り抜けます。
※ヴァシュロン・コンスタンタン カリスタ
1979年には、世界で最も高価で複雑な腕時計の1つとなった「カリスタ」を発表しました。
この時計の製作には職人が6000時間を費やし、さらに宝石商たちが20か月を費やして、130カラットにもなる118個のエメラルドカット・ダイヤモンドをはめ込みました。
当時の価格で500万ドル(1ドル100円換算で5億円)という驚異的な価格でしたが、現在の価値ではおよそ1100万ドル(1ドル100円換算で11億円)にもなっています。
1940年代から、薄型ムーブメントの開発に取り組んできたヴァシュロン社ですが、1968年にはさらにその上を行く、超薄型の自動巻きムーブメント「Cal.1120」の開発に成功します。
厚さ2.45mmの『Cal.1120』は現行モデルでも定番モデルの『オーヴァーシーズ』に搭載して発売されたことで、時計専門家やコレクターたちから大反響を呼びました。
さらに年月を重ねた1992年、今度は世界最薄のミニッツリピーター用ムーブメント「Cal.1755」を誕生させます。
厚さはわずか3.28mmで、限定200本のみ製作されました。
まとめ
1996年に、リシュモングループがヴァシュロン社の株式をほぼ買い占め、グループの傘下に入ります。
2000年代に入ると、ヴァシュロン社は創業から3世紀を迎え、より近代的でモダンなデザインにフォーカスしたスポーツラインや、女性向けコレクションを発表します。
その後も同社は、今日に至るまで複雑機構と薄型ムーブメントの限界に挑むべき挑戦を続けています。
2015年9月に発表されたオーダーメイドの時計「Ref.57260」は、設計と製造に8年の歳月を費やし、最先端の技術と伝統的な手法の組み合わせによって57もの複雑機構を搭載した、史上最も複雑な時計とされています。
これからも、同社の長い歴史による卓越した技術と挑戦によって、独創性あふれる魅力的な時計が誕生することでしょう。