素晴らしきスイスの腕時計ブランド ロレックス(ROLEX)の歴史

ロレックスの創設者ハンス・ウィルスドルフ

 

ロレックスの歴史には、会社と創設者である
ハンス・ウィルスドルフとの、切っても切れない関係があります。
現代のアップル社のように、ロレックスは会社を巨大にした
その1人の男の情熱を、ずっと受け継いできました。
ハンス・ウィルスドルフの亡き後も
この業界のみならず、全世界で偉大であり続けているところも
アップル社とよく似ています。

ロレックスの物語はハンス・ウィルスドルフの誕生から始まります。
彼は1881年3月22日、ドイツのバイエルン州クルムバッハで
金物屋の息子として生まれました。
12歳の時、不幸にも両親が相次いで亡くなりました。
ウィルスドルフの母親は、バイエルンの名家
マイゼル醸造所の子孫であったため
家業の一つを継ぐのではないかと思われていました。

しかし実際は違いました。
ウィルスドルフと彼の兄弟達は、引き取られていた
叔父叔母の元を去り、両親の金物屋を売却し
その収入を、相続できる年齢になるまで
「ウィルスドルフトラスト」に預けることにしたのです。
「ウィルスドルフトラスト」は、両親の死という
悲劇の結果として始まったものでしたが
これが後の、ハンス・ウィルスドルフ財団の基礎となったのでした。

真珠から精密機器へ

18歳になるまでウィルスドルフは、ドイツにある
全寮制の学校で過ごします。
そこで彼は、数学と語学が堪能でした。
卒業後は真珠販売会社に就職し
そこで貿易と宝石産業についての知識を身につけました。
この間、ウィルスドルフは商売の戦略を学び
技術に没頭していきました。
そして20歳で退職し、スイスにある時計の輸出会社へ入社。
そこでの顧客との出会いにより
懐中時計や時計の技術に魅了され
ウイルスドルフの情熱は
これらの時計の精密機器へ注がれるようになるのでした。

共同経営

1903年、ウィルスドルフが22歳の時
ロンドンへ引っ越しますが
不運にもその途中で、相続財産である
33,000マルクを盗まれてしまいます。
しかし彼は、そんな困難にも負けず
自身の時計会社を作る計画を立てながら
イギリスの時計産業で働き続けました。
イギリスの市民権を取得したのもこの頃です。
そしてとうとう24歳の時、
アルフレッド・ジェームズ・デイヴィスと出会い
彼と共同経営の時計会社を設立することができました。
デイヴィスには資金があり
ウィルスドルフには、スイスでの時計会社で培った
時計製造の知識がありました。
彼らはビジネス上でも信頼し合っていましたが
実際デイヴィスは、ウィルスドルフの実の妹の夫だったので
絆は単なるビジネスを超えて、さらに固いものでした。

ウィルスドルフ&デイヴィス社

ウィルスドルフは義弟から借りたお金を
ディヴィスの出資とし、その結果彼らはお互いが
会社の50%を所有することになりました。
同等のパートナーとして、彼らはお互いに
ウィルスドルフの時計の知識、
ディヴィスの国際貿易の知識を必要とし合い
尊敬し合っていました。

本物の男は腕時計をしない

現代とは全く異なりますが
この当時、腕時計というものはリスレットと呼ばれ、
サイズは小さい、文字は小さい、時間が正確ではない、
そして女性がつけるというのが一般的でした。
いつしか「腕時計を付けている男はそのうちスカートをはくだろう」
と言われるようになりました。
さらに当時の時計業界さえも、腕時計は人の激しい動きには
耐えられないと考えていました。
しかし、ウィルスドルフは常に野心を持ち
腕時計の改良を重ねてきました。
そんな中、彼はある点に気が付きました。
ブール戦争で、兵士が暑さのため
ジャケットを着ていなかった事、
そして戦闘中に、ポケットの中の懐中時計を
探すのが途方もなく不便であった事、
そしてその結果、兵士が革ひもで小さな懐中時計を
腕に巻きつけている事にするどく気が付いたのです。
この事によって、当時まだ存在しなかった腕時計という市場を
専門にするアイデアがひらめいたのでした。

ROLEX

1908年、ウィルスドルフはビエンヌ(スイス)の
時計製造会社「エグラー社」と契約を結び
優れたムーブメントの供給元を確保しました。
これは、時計のムーブメントの契約としては当時最大のものでした。
また当時の産業界には、トレードマークや
ロゴを付ける傾向がありました。
その時の「ウィルスドルフ&デイヴィス」という名前は
「コダック」や「コーラ」などのように
分かりやすいものではありませんでしたし
それ自体に特に意味はありませんでした。
そこで、どの国の人でも発音でき
書き間違える事もない名前として、
「ROLEX」と決めたのでした。
アップルという名前が、コンピューターと何の関連もないように
ロレックスという名前も時計とは何も関係がありません。
そしてその後、腕時計は一時的な流行ではなく
誰もが知る製品となったのです。

 

初のA級証明書取得

1910年、ロレックスは初代ムーブメントで
ビエンヌの時計学校(のちのビエンヌ検定局)
公式精度検定最高レベルのクラスAを獲得し
腕時計は正確ではない、という常識を覆しました。
時間を正確にするという、最初の難関を克服したのです。
さらに1914年には、ムーブメントの精密さでキュー天文台(イギリス)
でも精度A級認定を受けるといった、腕時計初の快挙を成し遂げました。
残る二つの難題は、防水と自動巻きでした。

基準の設置

試験は、温度差や姿勢差を測り45日間を必要とする
大変厳しいものであり
ロレックスより以前に、これらの証明書が与えられたのは
航海用のクロノメーターだけでした。
ウィルスドルフはこの証明書の価値を重要視し
ロレックスの製品は、全てこの種類の試験をパスさせ
公式な証明書がないものは販売しないことを決めました。
エグラー社のムーブメントでさえ
ロレックスの7日間の電池試験に通らなかったものは
受け入れてもらえませんでした。
そして時計業界全体にも、時間の正確さの基準を設けたのでした。

有名ブランドである、エグラー社からのムーブメントの供給を
着実に受けていたロレックスは順調そのものでした。
しかし、第一次世界大戦が始まり
腕時計の需要はますます高まりましたが
同時に反ドイツ対策として
イギリスへの貿易に規制ができました。
イギリスへの時計や宝飾品の関税が高くなってしまったため
ウィルスドルフとデイヴィスは、これまでヘルマン・エグラーと
築き上げてきたパートナーシップを利用して
商品の多くをビエンヌに移しました。

 

ジュネーブ

1919年、ロレックスはエグラー社の一部を買い取り
会社名を「エグラーS.A.ロレックス・ウォッチ・カンパニー」
に変更しました。
そのあとすぐ、ウィルスドルフはデイヴィスから
株を買い取り、オフィスをジュネーブへ移します。
ビール(ビエンヌ)での工場は
全てムーブメントの製造に当てるためです。
ムーブメントはビールで製造していましたが
時計の組立はジュネーブでしていました。

防水時計 オイスター

1925年5月2日、ロレックスは、あの誰もが知る
王冠のマークを商標登録します。
また同年、ロレックスは全ての時計ケースの弱点である
水とほこりの侵入の問題に取り組み始めます。
ウィルスドルフはジョルジュ・ペレと
ポール・ペルゴという2人が考案した
ねじ込み式リューズの特許の事を聞きつけ
それを交渉の末買い取り
翌年1926年の7月29日に、世界初の防水ケースである
「オイスター」を商標登録したのです。
「オイスター」という名前は、
ウィルスドルフが、晩餐会でオイスターの殻を
開けようとしている時にひらめいたものです。
今日のロレックスを開ける際に必要な特殊な道具は
レストランでオイスターを開ける時に使う道具ととてもよく似ているのです。

ロレックスの模倣品

特許で保護されているにもかかわらず
ウィルスドルフは、模倣する業者から
その特許を守らなければなりませんでした。
1934年、ウィルスドルフはドイツの
シュミッツ・ブラザーズを相手に訴訟を起こしました。
1937年、2年半の訴訟の後、スイスの裁判所は
シュミッツ・ブラザーズがロレックスに対し
損害賠償を支払う判決を出しました。
ウィルスドルフは、防水時計を発明したわけではありませんでしたが
そのアイデアを実用的に製品化した初めての人物でした。

メルセデス・グライツ

ウィルスドルフは、オイスターの防水時計の販売を促進するために
とても見事な宣伝方法を披露します。
1927年10月21日、ドーバー海峡を泳いで横断するという
ロンドンの速記記者だったメルセデス・グライツという
女性の腕にオイスターを着けたのです。
彼女は15時間15分をかけて、ドーバー海峡の横断泳に成功。
オイスターウォッチは、こうした環境下でも正確に動き続けました。
後日、ロレックス社はこの成功を
新聞一面を使った広告で、世の中に発表しました。
高い防水性能を証明した「オイスターウォッチ」は、一躍注目の的となり
ロレックスの名が世に知らしめられたのです。
ウィルスドルフは、広告だけではこの品質と信頼性を
消費者の心に植え付けるのは難しいので
何とかして証明するべきだと考えていました。
メルセデス・グライツの横断は、アスリートや冒険家を使って
その製品の耐久性や信頼性を証明するという、初の事例だったのです。

自動巻き

ウィルスドルフ悩んでいました。
いくらケースが完全に防水になっていても
問題は人間であると。
時計を着ける人がゼンマイを巻き忘れる、
もしくは、巻き上げたあとリューズを締めることを忘れてしまい
そこから水やほこりが入ってしまう事が問題でした。
ウィルスドルフの次の挑戦は、ゼンマイの自動巻きでした。

パーペチュアルムーブメント

ウィルスドルフは自動巻き機能のために
既存のムーブメントの改良を始めます。
1931年、エグラーの既存のムーブメントを使用し
半円形のローターを回転させて、ゼンマイを巻き上げるという
革新的な仕組みの自動巻きを完成させました。
1948年にその特許が切れた後、現在に至るまで
その仕組みは世界中の自動巻きの時計に採用されています。

ロレックスの精密さ

防水機能に加え、自動巻き機能も加わったロレックスは
30年代、40年代、50年代を通して
正確さでは他社に追随を許さず
1934年までに、主要な4つ全ての天文台
(スイスのヌーシャテルやジュネーブ
イギリスのキュー、フランスのブザンソン)
から証明書を取得した、初の時計会社なのです。

事業の拡大

1931年は災難と幸運の年でした。
ロレックスの業績はとても好調でしたが
世界恐慌の影響で、イギリスのポンドは大暴落。
その結果ロレックスの値段は上がり
輸出は60%も減ってしまいました。
生き残るためには、イギリス以外の国に売るしかありませんでした。
ウィルスドルフは遠く東へ事業を拡大し、大成功。
ロレックスはオイスターの製造を
1年に2500個からおよそ30000個まで増やしました。

ウィルスドルフ財団

1944年、ウィルスドルフの妻メイが亡くなり
続いて長年のビジネスパートナーであった
ヘルマン・エグラーも亡くなります。
ロレックスの唯一のオーナーとなり
後継者がいなかったウィルスドルフは
1945年、ウィルスドルフ財団を設立します。
彼の死後、ロレックスがどのようにあるべきかを厳格に指示されており
他社との合併や売却、上場することのないようにと記されています。

「ジャストインタイム」自動日付機能

1945年、ロレックスは創立40周年に
「デイトジャスト」を発表しました。
これは、世界で初めての
自動で、文字盤についた小窓の日付が変わる腕時計です。
日付がすぐ見て分かり、午前0時ジャストに日付が
変わるということから「デイトジャスト」と名付けられました。
日付の小窓が3時の場所にあるのは
ほとんどの人が時計を左腕に着けるので
シャツの袖からのぞいて見えるようにするためです。

成長

ロレックスにとって、1950年代は戦後成長を成し遂げた10年でした。
1953年10月29日、「エクスプローラー」の実験で
エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイの
エベレスト登頂が成功。
同年、世界初のダイバー用腕時計「サブマリーナー」を開発。
海底での水圧にも耐えられる事を証明しました。

進化は続く

また1953年にロレックスは、スイスのバーゼルでの時計展で
サブマリーナーの前身である「ターノグラフ」を発表しました。
続いて1954年には、「100m防水のサブマリーナー」
「ミルガウス」「GMTマスター」を発表、
そしてついに、日付と曜日両方が同時に表示できる
唯一の時計「オイスターパーペチュアルデイデイト」
を発表したのです。

レン・ポール・ジェネレ

ロレックスの歴代ディレクター達も
最高の時計を作るにあたって
重要な役割を果たしていることを忘れてはいけません。
レン・ポール・ジェネレは、1950~60年代の
最も重要な経営幹部の1人でした。
ジェネレは、専門のスポーツや職業のために
デザインされた時計を生み出した立役者です。
ダイバーや探検家、またビジネスマンのための
時計を作るという概念は、ジェネレから生まれたものです。
アメリカの航空会社である、パンアメリカン航空が
ロレックスに、24時間世界標準時を表示できる時計を
製造する話を持ちかけました。
その結果、ジェネレは時計につける24時間針や
目盛りと回転ベゼルで、別の時間帯を表示する
機能がついた時計を開発することに従事しました。

ロレックス 最初のコスモグラフ

1960年はロレックスにとって、
良い年でもあり、同時に悪い年でもありました。
ロレックスはさらに技術改革を続け
金属ベゼルに時速を表示する機能を搭載した
最初のコスモグラフを発表しました。
また1960年には、潜水艇トリエステ号の船体に
試作品のディープ・シー・スペシャルを取り付け
エベレストの標高よりも深い、マリアナ海溝の底10,911mまで
到達するという快挙を成し遂げました。
ディープ・シー・スペシャルが記録を達成した直後の
1960年7月6日、ロレックスの創設者である
ハンス・ウィルスドルフがこの世を去ります。

 

ハンス・ウィルスドルフの亡き後、
1963年から1992年まで
アンドレ・ハイニガー氏がロレックスを任されます。

その後、アンドレの息子であるパトリック・ハイニガー氏が
1992年~2008年の間CEOを務めました。

1960年代は更なる革新の末
「デイジャスト」「エアキング」「シードゥエラー」
そしてその他スポーツ専門のラインナップなどが発表されました。

 

ロレックスは
「ハンス・ウィルスドルフ財団」という基金を
ベースにしている財団法人組織であり
実態を公にする義務がないため
社内資料をほとんど公にはしていません。
財務の専門家を必要とせず
自社だけの力で、他社をぬきんでる成功をおさめたと言われています。
そしてロンドンで、バッキンガム宮殿に次いで最も美しいビルを
銀行の援助や介入を全く必要とせず、手に入れることができました。

ロレックスは「革命」ではなく「進化」

1970年代から今日まで
ロレックスはパトリック・ハイニガー氏の
「ロレックスは革命ではなく進化である。」
という言葉を守り続けています。
他社のブランド時計、違法な模造品問わず
世界での競争に打ち勝ち
ロレックスは新しい時計、新しい技術を生み出しているのです。
そして今日、ロレックスはおよそ一日2000個の時計を製造しており
常にグローバル企業のトップ100にランクインし続けているのです。